越中詩郎
1978年に全日本プロレス入門。1979年に園田一治(後のハル薗田。故人)戦でデビュー。若手のころはジャイアント馬場の付き人を務めていた。
1983年にルー・テーズ杯争奪リーグ戦で三沢光晴を破り優勝し、翌年ともにメキシコに遠征。サムライ・シローの名で活躍した。なお、この頃怪獣の着ぐるみを着て西武百貨店のCMに出演したことがある。
三沢光晴がタイガーマスクとして先に凱旋帰国したことに危機感を抱き、1985年に新日本プロレスに押し掛け同然で移籍して帰国。この行動にジャイアント馬場が激怒し、越中は帰国後しばらく新日本のリングに登場することができなかった。そのため全日本プロレスを離脱後、すぐに新日本プロレスに移籍せず、まず当時設立したばかりのプロモーションだったアジア・プロレスに移籍し、そこから新日に上がるという形を取っていた。なお、越中は最終的に会場まで出向き、馬場に詫びを入れたと伝えられる。
1986年、IWGPジュニア王座決定リーグ戦に出場し、初代IWGPジュニア・ヘビー級王座を獲得。その後、旧UWFから戻ってきた高田伸彦とジュニアベルトを争う。高田のキックを愚直にも正面から受けるファイトスタイルでブレイクする。その後IWGPタッグ王座にも君臨。ドラゴンボンバーズへはいるも誠心会館との抗争に関して新日本プロレス選手会と対立、頭を剃り上げて反選手会同盟(のちの平成維震軍)を結成。1998年、天龍源一郎と組みIWGPタッグ王座に君臨。1999年維震軍解散を宣言し新日本本隊に復帰。その後佐々木健介と組みIWGPタッグ王座に返り咲いた。
2000年、全日本プロレスに参戦し、三冠王者決定トーナメントに出場。
2003年1月、新日本プロレスを契約満了をもって退団し、WJプロレスに入団。当初は盟主である長州力の片腕的存在であったが、金銭面で揉め、大森隆男らと共にレイバーユニオンを結成。同年10月31日付でフリーとなる。
2004年2月、大森隆男とともに、炎武連夢(大谷晋二郎・田中将斗組)からNWAインターコンチネンタルタッグ王座を奪取した。
現在は新人時代のライバルだった三沢率いるプロレスリング・ノアに参戦、平成維震軍の仲間だった斎藤彰俊と共闘する。またZERO1-MAXやキングスロード、新日本プロレスにも参戦している。
常にコンディションが良いことで知られ、強靭な受けの技術と切れの良いスープレックス、高角度のパワーボムを持つ。また、近年はヒップアタック等の尻(ケツ)を利用した攻撃が高い会場人気を集めており、ケツだけで試合を組み立てられる職人レスラーの才能も持ち合わせている。
蝶野正洋とは犬猿の仲。これは反選手会同盟を結成した時の選手会長が蝶野であった事に起因する。
以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用